シュール系について
(シュルレアリスム、前衛芸術、イラストレーションなどの詳しい解説はWikipediaを御参照下さい。このページでは、制作する側から見た姿勢を書いています)
まず、絵を人間の性質にたとえてみましょう。
ゴッホのようなタッチ感豊かな人は喜怒哀楽の激しい感情豊かな人。印象派風の風景画は温厚な紳士を思わせます。写真のように描かれた写実絵画は冷静な科学者か弁護士を思わせます。
では抽象絵画は?
シュルレアリスム絵画は?
・・・詰まってきました。
答えを出すのが困難です。
具象的な絵画は社会や現実との繋がりが感じられるのに対して、抽象系は社会との繋がりが感じられません。
たとえば隔絶した島や山奥に一人ポツンと生きているような人を連想させます。社会や現実を無視してひたすら自己主張するお山の大将のようです。もちろん人間の言葉は通じませんが、ジェスチャーは通じます。
シュール系はどうでしょうか?絵に具体的な形は描いてありますが、組み合わせや取り扱いが奇妙です。
「私は太陽が西から昇ることを希望する」と言っている人のような感じがします。「同姓が愛し合って集合して国家を作っても良いではないか」とか「手二本で歩いても良いではないか」と言っている人を連想させます。なかなか面白いですが、しかしこんなことはお笑い芸人の管轄分野です。
そう考えると、まともで正常な作家は、抽象系やシュール系絵画には手を出さないのが普通です。
絵画教室の若い人たちは抽象系やシュール系に惹かれる人が多いです。これは抽象系やシュール系が破壊と結びついているからです。
赤ちゃんは周りの物を触って壊します。壊して物の仕組みを知ります。若者も既存の秩序や常識を壊して新しい社会を創ります。破壊することは若さと発展途上の証明です。
子供たちに恐竜や怪獣が人気がある理由がよくわかります。
シュルレアリスム運動や抽象絵画、印象派運動は、”写真から逃れる”ということが背景にありました。(あるいは科学技術から逃れる)
画家は写真に出来ないことをやって生きて行くしかなかったのです。
印象派は色で対抗しました。当時はモノクロ写真ばかりだったので。
ポスターや石版画も色で対抗しました。
シュルレアリスムは並べ方や大きさなど、形全般で写真に対抗しました。今でこそ多重露光やコラージュが当たり前ですが、当時はそこまで進んでいませんでした。
科学技術から逃れることと、投機心と、革命好きなフランス人の国民性とが重なって、「・・主義」、「・・イズム」が流行りました。日本の公募美術団体は長短含めてこれらを輸入しました。
ちなみに今まで写真は絵の「敵」でしたが、今後はコンピューターが「敵」となるでしょう。「コンピューターに出来ないイズム」が生まれることでしょう。
革命がもてはやされるのは、その社会が未成熟で発展途上であることの証明です。
革命の成果を味わうためには、革命後に長い検証と整理の期間を要します。検証と整理で裏づけされてから、その革命は成功だったと言えます。
日本の明治維新をごらんなさい。
太平洋戦争終戦後の平和期間をごらんなさい。
長い平和な時代があったでしょう。
毎度いつも常に革新で革命で独創で斬新ばかりだったら、検証も整理も出来ません。
いつまでも子供でいることを希望し続けている大人のようなものです。
ゴッホやセザンヌの天才を見抜けなかった反省として、今度は反対の「何が何でも新しいのが天才」のような集団ヒステリー状態となりました。これは現在までも余波が及んでいます。
私は抽象絵画やシュルレアリスム絵画を否定してはおりません。
表現の必要上、どうしても非現実な表現形式を採ることはあります。(ジョットの絵では天使が空中を飛んでいる)
しかし非現実な形式を作品や生活の中心にはしません。
非現実な生活になってしまったら現実社会との繋がりが切れてしまいます。
現代日本で非現実絵画を描いていくことができるのは、社会にそれらを養う余裕があるからです。消費の主役が若者中心なので、若者文化に利益が集中しやすいことが背景として考えられます。
制作者が考えているほど 人々は非現実絵画を心から楽しんではいません。これは所謂「現代音楽」も同じです。
成熟した文化は安定した絵画様式を好みます。人間に目が二つあって手が二本あって足で歩いて、というようなことが普遍であるように、絵の様式も 二千年程度の年月ではそれほど劇的に変わるものではありません。
昔 作曲家のストラヴィンスキーは、ラフマニノフの曲を革新的で無いという理由で認めなかったそうです。しかし今から見れば、曲さえ良ければどの時代でも関係ないと感じます。もっと広い心で考えたいものです。
絵の様式、スタイルは”服”のようなものです。人間に似合った服は、機能的で 人間を美しく見せます。奇抜な服は人目をひきますが、長続きしません。
※絵画教室で勉強の一過程として非現実絵画を実践しながら学ぶことは望ましいと思います。発展途上ですから。