公募展

洋画の公募展には大きく分けて日展系と在野系があります。

日展系の公募団体は、光風会、一水会、示現会、白日会、東光会などが有名です。

在野系の公募団体は、二科会、二紀会、国画会、新制作協会、独立美術協会などが有名です。

それぞれ主義主張していますが、一般に日展系は写実か具象絵画、在野系は抽象かフォー部かシュルレアリスム絵画を主力としています。

一昔前までは、公募展の会員であることがプロの証明とされてきました。

 

公募展出品者は”会員”とか”会友”などの序列でランク分けされています。

新規出品者や技術未熟者は”一般”。

何回も入選や受賞して団体から力を認められた人を”会員”。

その中間を”会友”または”準会員”と呼びます。

さらに会の運営に関わる人を”委員”と呼びます。

この序列分け制度は、批判されながらも長年生き続けています。

会社でいうと、一般がアルバイト、会友が契約社員、会員が正社員、委員が管理職となりましょう。したがって上に行くほど実力があるということになります。

しかし実際は少し違っています。

頑張って会員になってしまうと、もう格下げされることも無いので、安心して手を抜く人も居ます。あるいはある程度の年齢に達してしまったので、パワーが落ちてしまう人もいます。

実際には会友ぐらいの立場の人の方が燃えていることが多いです。人間は欲と興味で動くものなので、このぐらいが実力と意欲がちょうど良く釣り合ったあたりの地位なのでしょう。

 

すべてがそうではありませんが、公募団体には作品とは違う方面の努力(経済力、政治力、美貌、労働奉仕等)によって高い地位に就いている人も居ます。これは困ったものですが、団体運営にとって不可欠の人物なので一掃することは困難です。

公募展のレベルの高低をはかる目安は、作品の質的要素と労働奉仕のバランスです。

両方とも必要なものですが、作品の質よりも労働奉仕を高く評価するような団体はアマチュアであり、質的要素を高く評価する団体はプロと考えてよいでしょう。もちろん中間に位置する団体も多数あります。

 

ただ、これだけは言えるのですが、優秀な作家はどのような公募展に出品しても認められるということです。

認められてから入会して、展示や運営に口出ししないで、大人しく自分のポジションを守っていけば、平穏に暮らして行くことができます。

 

公募展では、作品が展示される部屋(第一室とか)によって序列分けされています。

第一室二室は新進または中堅の優秀作家、第三室四室は審査員、最後の部屋はやっと入選した人の作品が展示されます。

 

展示位置には出品者の欲が端的に現れます。誰でも良い場所に飾られたいのです。

部屋が変わるたびに「号いくら」の評価が変わることもあります。ゆえに展示場所をめぐって出品者同士の殴り合いのケンカにまで発展することもあります。

 

絵の芸術的価値は、展示位置とほとんど無関係と思われます。

一般に第一室の方が最後の部屋よりも優れていると思われていますが、私が観察したところ決してそのようなことはないと思いました。

第一室の作品が優れているのは”技術”です。

芸術的真摯さや感動の量は、会場後半の部屋の一般出品者の作品の方が優れているように思います。しかしそうは言っても、私が公募展に行くと始めの方の部屋しか見ないで帰ることが多いです。矛盾してますね。

 

公募展の中には、会員同士の公平を期すために、展示位置を抽選で選んだり、会場内に力のある作家や優秀な作品を分散させて展示する団体もあります。これは一見公平かつ平等のようですが、この手の展示方法は成果の上がらないことが多いように思います。

どうしてかというと、これは経済学で言う”逆淘汰”です。

力の不足した作家が「ありがたい、公平で平等だ」と喜ぶのに対し、力のある作家が「こんな部屋に飾られたくない」と言って退会して行きます。

観客は、その作品が17室に飾ってあれば第一室の作家より劣る、と解釈します。たとえ会の展示方法がくじ引きであっても、何も知らない観客に対して、何を言っても無駄です。

そう考えると、序列を付けたり展示室で差を付けたりすることは、意外と公平かつ平等なことかもしれません。

 

かつて美術団体は主義主張を持っていました。「我らは表現主義を標榜する」とか「我らは正統的な絵画を目指す」など。

しかし時代は変わり、主義主張が無意味化しつつある現在、どこの団体も似たような作品ばかりになってしまいました。主張していたのでは優秀な作家の参加を逃してしまいます。

現代の公募美術団体は、主義主張よりも〔組合〕または〔会員相互の人間紹介〕によって機能していると言っていいでしょう。

 

公募展における作品の大きさは、大方100号程度の大作と決まっていますが、これは芸術的な視点で割り出した大きさ基準ではありません。

会場壁面の広さに、画家が作品制作を合わせたものです。

その証拠に2010年から二年間、東京都美術館が改修工事になりましたが、毎年東京都美術館で開催する展覧会の美術団体は、期間中別の会場を探さなければなりません。二年間は民間の会場を借りて開催されますが、そこでは展示作品の大きさが10号~20号程度のサイズになっています。

このことから、画家は自己の作品のサイズに信念を持って制作していないことが分かります。

 

公募展は日本特有の現象です。海外には公募団体展というのはありません。

「外人が公募展を笑った」と言って公募展を軽蔑する人もいますが、よくよく考えてみたら、日本の文化は世界一流です。江戸時代の番付のようなヴィジュアルな方法で、見えないものを見えるようにした文化は、ひょっとしたらこれから世界が真似をするようになるかもしれません。

 

なぜこれほどまでに公募展が発展したのかというと、それには団塊の世代が関わっていると考えられます。受験競争とも関連していますが、ベビーブーム(団塊の)世代が美術の世界にも競争原理をもたらしたと推測できます。

現在は、団塊の世代が年金世代に入りつつあります。趣味に生きる人も増えてくるでしょう。そうすると公募展もここしばらくは前述とは別の意味で盛況が続くと思われます。

 

しかしこれから長期的に人口減少が続くと、公募展は衰退に向かう可能性も出てくるかもしれません。

図は公募展風景です。図の展覧会は、文中の内容とは一切関係ありません。

 

【アマチュアサイドからの公募展】

私の絵画教室に絵を習いたいと言ってくる人の四割近くは中高年の方です。大方の中高年の方は「趣味で絵をやりたい」ような方々で、とても品が良く、礼儀正しい紳士淑女たちです。

しかし時には、毛色の変わった中高年の方がお見えになります。

どのように変わっているかと申しますと、彼らの顔に「どこどこ美術協会の会員になりたい」と書いてある点です。

このような傾向は中高年の方に割と多くて、20~30歳代の人には滅多にみられません。きまって中高年の方なのです。この現象を不思議に思って長年考えてきました。

そしてこの不思議が最近わかってきました。

 

人間には年齢に応じた理想像があります。

たとえば、子供たちの理想像は、強いことです。特に体力が強い人(子)に憧れを持ちます。ケンカが強くて体力が強ければリーダーであり、英雄であり、希望の星です。スポーツ界の英雄や超能力の漫画キャラクターなどに象徴されます。

青年の理想像は、出世した人、美しい人、裕福な人、誠実な人などでしょう。青年は知力の強い人に憧れを持ちます。社会に切り込んで生活を立てるような人に人気があります。

 

中高年の中の、生活も安泰で、お金もそこそこある、子供にも恵まれた、今のところ病気もしていない、絵を描いてみると意外に描ける、のような方々に待ち受ける次の欲望が「名誉が欲しい」です。

絵を通して名誉が手に入るのならば、手に入れてみたい。そう考えて、やがてそれが目標となります。展覧会にも出品してみます。

ところが有力公募展の会員への道は平坦ではありません。やがて無理だと悟った人たちは、地元美術団体などに流れて行きます。そしてやがて「評論家」になります。

「評論家」たちは、肩書で画家の価値を判断します。絵を見て内心良くないと思っても、立派な肩書がついていれば尊敬します。逆に良い絵でも肩書が無ければ軽蔑します。

絵が好きで始めたものが、実は名誉の方がもっとが好きだった、という例は比較的多く見られます。狂った価値判断能力は、大病を患って生死の間をさまよう体験をするまで治りません。

 

しかしこれらは、子供が体力の強い英雄を崇拝するのと共通した、生物特有の心理(生理)ですから、決して非難できません。

 

非難できませんが、もちろん、これらの生理現象が真の芸術とは無関係であることは言うまでもありません。