陰のコラム集(長いページです)

「原発反対、戦争反対」を叫ぶ人たちへ---戦争は食いっぱぐれた独裁国家が起こすのだよ(2016年)

「原発反対、戦争反対」を叫ぶ人たち
これらの人々の中には、中国の工作員とカモにされた人たちが混ざっている。
正しい日本国民はこれを見分ける必要がある。

【工作員&カモにされた人々】日本にだけ原発反対、戦争反対を叫んで中国に対しては叫ばない、無言である。
【正義の人たち】日本にも中国にも等しく原発反対、戦争反対を叫ぶ。
以上
・・・見分け方は実に簡単だった。

以前にも書いたが、核廃棄物は原爆に転用可能である。日本の核廃棄物からいつでもすぐに原爆を作ることが出来る。
核廃棄物は、そのままミサイルに付けて空からバラまくこともできる。
ゆえに原発から生じた核廃棄物を保有することは核武装しているのと同じ事である。核武装の無い日本はこうやって防衛しているのである。
ゆえに日本から原発が無くなれば中国が喜ぶ理由は子供でもわかる。

侵略し易くなるから。

このことに気づかないで「原発反対、戦争反対」と叫ぶのはバカである。

 

しかも
中国は「南沙諸島に原発を造る」と言っているのですぞ。

それ、原発反対派よ、叫べ!叫べ!!

 

戦争は食いっぱぐれた独裁国家が起こすのである。

「日本が軍国主義を復活させる」と言っている人たちも、かなりのバカである。時代認識がまったく出来ていない。事実を見ていない。きっと頭が宗教一色なのだろう。陰の宣教者は中国工作員だ。

日本のように公然と首相を批判できる、豊かで世界一貧富の差の少ない国が戦争など起こすはずがない。戦争を起こしたところで何のメリットも無い。

ほんとうに怖いのは北朝鮮や中国である。独裁国家、言論弾圧、チベット侵略、ウイグル侵略、ブータン侵略、南沙諸島侵略 等々。

戦後武力によって領土を拡げた国 第一位--それは中国である。


※ちなみに私は原発はキングコングのようなものだと思っている。
島民にとってキングコングは怖い存在だ。ヘタをすると生活をメチャメチャにされてしまう。
しかしキングコングが居るおかげで島を侵略しようとする者は居ない。島民はいざとなったら侵略者の前にキングコングを放てばよい。
キングコングは神である。
神とは愛するだけでなく破壊することもある。人々は破壊された後に復興する。学び、成長して。
神はそうやって人々を守り、進化させているのだ。

現代アート(2016年)

私は「東京展」という公募団体に入っていて、年に一回展覧会がある。

東京展の作品傾向は”現代アート”だ。

では私も現代アートの絵を描いているかというと、そうでもない。むしろ古典に近い。

現代アートの団体で古典を創っているのだから浮いてしまうかというと、そうでもあり、そうでもない。

東京展に来賓される赤津侃という美術評論家の先生は、現代アートが専門分野だ。「自分が生きている時代精神を創り出すこと」が現代アーティストだと言っている。

アキワ君はこんなことをまったく考えていなかったので、今現在評論家先生の眼中に無い作家となっているようだ。

東京展の内部にも現代アートにこだわる人がいるので、現代アートとは何だろうかとアキワ風に考えてみた。

 

古典から印象派~表現主義~フォービズム~キュービズム~抽象~シュール、みたいに西洋美術史は流れているが、今最も現代的で新しいと認められているのはインスタレーションである。つまり抽象やオブジェや超写実は古いということである。

その考えで行くと、公募展などは絵画が中心だから古いとなってしまう。公募展、画廊まるごと時代遅れだ。

えっ、何だそれは。

では絵を描くことは時代遅れなのか。

いや、そうではない。

私が考えるに、抽象、具象、オブジェ、インスタレーション等は進歩ではなくて、ジャンルだと思う。時代の変化が新しいジャンルを生んだのだ。したがってジャンルの違いを「古い」「新しい」と論じても意味がない。

過去の開拓者のおかげで作家は選択肢が増えたのだ。

住居にたとえると、現代的なマンションもあり、一戸建てもあり、パリ旧市街もあり、カッパドキアもあり、白川郷もありで、それぞれ違った味わいがある。

 

在野系公募団体は表現の自由を標榜する。今までこれは「抽象作品を認めよ」といった意味で使われてきた。

しかしほんとうの表現の自由を標榜するのであれば、逆に在野系美術団体で古典的に絵を描いて発表するのも”表現の自由”である。

 

今現在この国のこの時代に生きていれば、自然と時代精神が反映されてしまうのだ。なにもわざと現代ぶった作品を創る必要はない。何十億年の地球の歴史から見て、人間の肉体や精神の進歩など進化が遅いものだ。古代人も現代人も等しく欲と恐れに動かされている。太陽は東から昇る。男女は接近する。子供はかわいい。

 

作品は、結果として優れていれば良いと思う。新約聖書にこう書いてある、「良い実ができるから良い木だ」と。実で判断することが大切である。

時代精神は”出す”のではなく”出る”のである。

 

多様な選択肢--これが現代アートである。

多様な選択肢は、それぞれが価値を認めて、それぞれが共存することでもある。

 

過去の美術遺産を相続する人もいれば、放棄する人もいる。両方”あり”ではないか。

ちなみに私は相続する方を選ぶ。何てったって得である。相続したものを自分なりに解釈して進化させることが大切だと思っている。

似て非なるもの(2016年)

今は退会しているが、我が家は昔「民主商工会」(略して民商)という所に入っていた。

仕事で金銭トラブルがあり、困っていたところ人から紹介されて入った。民商の弁護士が相手側に金銭取り立てをやってくれたのだ。それ以来長らくお世話になっていた。

民商は、基本は税金対策の会で、確定申告時期になると勉強会や講習会を開いて教えてくれる。アキワ家のような零細にとって力強い味方だったのだ。

民商の母体は日本共産党。選挙の時期になると「共産党の誰々候補に入れて下さい」と電話やら訪問やらたくさん来る。私もそれに応えて投票していた。

おまけに「日本アンデパンダン展」という公募展(共産党がバックアップしている)にも参加をしたのだ。

 

しかし最近、尖閣や南沙諸島など中国の問題が出てくるにつれて民商への態度も変化するようになった。

民商は零細企業に節税対策を教えたり協力する団体だが、当初私は、義侠心というか弱い者の味方をして支持票を得る共産党の戦略だと思っていた。それならばある程度理解できる。決して悪いことではない。

では、仮に日本共産党が政権を取ったとしよう。

そうなっても民商は続くだろうか?

続くわけがない。

共産党や民商は政権奪取が目的なので、自分たちが政権を取ったら節税など許さないだろう。逆に節税団体や組織を潰しにかかるだろう。ここが大切な所だ。

 

昔、日本社会党がマルキシズムを謳って労働組合を作って自民党に対抗したが、結局大企業の社員の待遇改善という成果しか上がらなかった。ゆえに社会党は資本主義を陰で支えていたのであった。よって現在ではその使命を果たして、解党寸前(社民党)にまでおよんでいる。

 

私がここで言いたいのは、

毎日新聞や朝日新聞、テレビ朝日やTBSの報道に左翼的な偏りが見られるが、その「偏り」が自民党政権の欠点を挙げて国民生活を改善是正させることが目的なのか、あるいは政権転覆させて中国を主導とする共産主義社会を実現させることが目的なのか、ということである。

両者は似て非なるもので、やっていることは同じでも、目的がまるで違う。

たとえば「原発反対」や「戦争法案」。

放射能が漏れた周辺住民の被害予防を第一に考えているのか、日本の武力を弱めて侵略し易くするのか(核廃棄物は原爆に展用できるので、隠れた戦争抑止力になっている)。

中国や北朝鮮にも訴えながら戦争を反対しているのか、日本だけを対象にして反対と言っているのか。

それぞれ区別が難しい。

 

私たちの正義の信念が誰かに利用されていることも多いのだ。それらを見分ける必要がある。見分けられないと侵略者に利用される結果となってしまう。

公募展について(2016年)

過去の記事で公募展について書いたが、最近少し考えが変わったので記しておく。

 

公募展にはレベルの高底がある。

絵画教室に絵を習いに来ている、絵が達者なお年寄りに「公募展に出したい」と言われることがあるので、その時にはこう答えている。

「特に希望があればそこに。希望がなければレベルの低い公募展が良いでしょう」と。

なぜかというと、レベルの低い公募展はアマチュアが多い。定年退職して絵を始めたような方々が実力を付けて公募展に出品することが多い。ゆえに彼らはプロほどの技術はないが、絵の作品を除いた社会的地位は高めの人が多い。しかるべき企業を円満退職したり経済的余裕があったりする。

逆にレベルの高い公募展は、所属作家の作品はプロだが、経済的には良くて学校の先生、悪くて日雇いだ(芸術家のプライドを持ちながら)。

ゆえにアマチュアのお年寄りが 社会的地位の高い人にペコペコされる団体と、貧乏人に一生ペコペコしなければならない団体とでは、どちらが幸福だろう。

「これからの人生、楽しく暮らしましょう」。

 

ただし若い人には「レベルの高い所を目指しなさい」と言うことにしている。

 

救済雑感(2000年前後に書きました)

 若い人が絵をやっていると、やがて自信のついたころに公募美術展に出品してみたい誘惑に駆られる。自分の実力を試したい気持ちもあって、東京ならば上野に足を運ぶようになる。

 公募美術展にもピンからキリまであって、そこの会員であることが誇らしいような団体もあれば恥となってしまうような団体もある。一昔前は公募美術団体の会員であることがプロの証明と思われていたが、時代とともに情報が行きわたると、人々も耳年増になってくる。誇らしげに「何々美術協会会員です」というと「ああ、あれね」と半ば軽蔑の目で見られる危険性もある。ゆえに若い人たちには美術団体選定を慎重にせよとアドバイスしている。

しかし大多数の公募美術展出品希望者は実際アマチュアなのにプロに見られたい人なので、それぞれなるべくレベルの高い展覧会を目ざしているが、なかなか相手様が受け容れてくれないようだ。

 

 そこで、今回はアマチュアでも「先生」と呼ばれて威張りたい人に、どうすれば尊敬の眼差しを受けることが出来るかお教えしよう。

 その1 なるべく知名度の低い団体を狙うこと。無名な上に抽象的な名前であればなお望ましい。例として、新現代美術協会とかアートジャックとかJANACとか創美術会とか何とか。名称だけではそこの団体のレベルをうかがい知ることが出来ない。描こう会とか職場勤労美術協会とか、あからさまにアマチュアであることがばれてしまうような名称の団体は避ける。

 その2 展覧会を決して見せないこと。見なければレベルが高いか低いか判断しようがない。見せないことでボロ隠しをする。そのためには「会期はいつですか?」と聞かれたら「あー、終わってしまったんですよ」と言おう。そして「今度案内します」と言って、実際に会期が近づいて来たら徐々に疎遠にして、あとで聞かれたら案内するのを忘れたことにすればよい。

 その3 非営利法人やブランド宗教の名に隠れる。「何々教美術家連盟の会員です」と言えば、「特殊な団体なんですね」と言われて、宗教に無関心の人はわざわざ見に来ない。かくして事実が露見しないですむ。

 その4 無名の団体は大方財政難だから、運営者は出品者を全員入選させる。会員推挙もそれほど困難ではない。不正に目をつぶり、怠慢を大義名分で合理化し、いつもニコニコしていればやがて好機がやって来る。以上。

 誤解の無いようにおことわりしておくが、無名の団体でも純粋で優秀な素晴らしい作家も居るし、有名団体でも美貌と経済力優先の人も居るということをつけ加えておく。

権威雑感(2000年前後に書きました)

 記念切手やコインなどを収集する趣味は、多くの人が少年少女のころ熱中したことと思うが、大人になって忘れてしまうことが多い。しかし記念切手といえども立派な金券で、実用になることは言うまでもない。この不況の時代、庶民の家計が詰まってきて、記念切手のコレクションを一斉に実用にしはじめたらどうなるだろうか。郵便切手が突如売れなくなり、やがて郵政完全民営化が加速するかもしれない。切手を発行する側は、あらかじめコレクションされる分の利益、すなわち実質的な郵便料金値上げが不可能となってしまう。

 

 巧妙に合法的に値上げするという手法は大規模企業も同様で、たとえばNTTのテレフォンカード。最後のワンポイントまで使い切ることは少なくて、少しずつ残ることが多い。テレフォンカードが贈答用に使われたり、希少カードがマニアの間で人気と地位を得れば、カード発行者は笑いが止まらないというものだ。このことに気づいた各社は、次にバス、地下鉄など考えられる限りのカードを発行して巨額の無労働利益を得ている。これこそ国家的国家ぐるみの陰謀と言わざるを得ない。

 

 発行された額面と使用された額面の差額で得た利益を、たとえば年金財政に回すなどすれば国家の権威が上がるというものだ。「経済的に正しいことは倫理的にも正しい」だから。

 

 絵画教室に絵を描きにきているお坊さんが、「インドの聖者の絵が描きたい」といった。そこで早速実行していただいている。インドではコジキ同然の暮らしをしている聖者が多く居て、人々は彼の言葉に敬意をもって耳をかたむけるという。しかし日本ではこうはいかない。その人の暮らしを見て判断する。結果、カネの有無で価値判断してしまうことになる。

 

 以前学級崩壊について少し触れたが、再びこれを考えてみる。

 「ロウソクは我が身を削って周りを照らす」という言葉がある。ロウソクが我が身を削らないで保身していては周りが明るくならない。学級崩壊の原因は、国家が以前よりも権威を尊重しなくなったことと、教職者の生活が保障され過ぎていることではないかと思う。人間も動物だから、収入減の恐怖にさらされれば魂を売って金銭を得る。サラリーマン化した教育者は彼の上役が事実上のお客様となってしまう。

 親は子供の躾を学校に頼りすぎている。学校に行くからには、教えていただくという気持が無ければ教育は成り立たない。親なら誰でも我が子を文盲にしたくないだろうから、義務教育をやめて自由教育にすれば、親は必ず子を躾る。そうなれば教職者は愛をもって信念を貫くことができる。

学級崩壊の下手人を親元に返す。たとえ教職者の収入が三分の一になっても。恐怖を克服することで尊敬される。これこそ清貧というものだ。

 

 最近では洋服も値段が安くなって、ディスカウントに行くと千円以下でも結構着られる物が置いてある。私も安い服を買って、それを高級そうに見せようとボタンを換えたりしてみたが、しょせんは中身がイマイチのため、目下思案中である。

 衣服は着る人によって天地の差が出る。コジキ同然の服でも聖者が着ていると、かえって権威を感じさせるから不思議だ。私服修道女の質素な身なりも同様で、とても重みがある。

 聖者とまでいかなくても、一般に魅力的なデザインの服は権威を含んでいる。男性に人気のある女子服といえば、看護婦、学生服、OL、スチュワーデスなど。 女性が魅力を感じる男子服は、スーツ、軍服、スポーツ選手、宝塚の男役など。

 服装は絵にたとえれば額縁のようなもので、中身の絵が最も大切であることを付け加えておく。

ケイザイ雑感(2000年前後に書きました)

 飲み会に行って、それが終わると、さて会計となる。その時に、誰が何をいくつ食べたか飲んだかをよく記憶している人がいて、私が人数の均等額分を払おうとすると、「きみはろくに飲んでないから何円でいいよ」などと親切に言ってくれる。その親切氏はアルコールが入って頭がパァに見えたけど実はそうではなかった。食べ物や飲み物の消費具合をよく観察把握していたのだ。このような素晴しい観察眼の人は飲み会の精算時にはなくてはならぬ存在である。

 

 一般のプロの画家は、銀座で個展を開かない。会場費が売上収入を上回ってしまうからである。今銀座で純然たる個展が出来るのは画廊の企画展を除いて、ほとんどアマチュアの方々である。

 ピアニストは自分の演奏用のピアノを持っていて、高価な物だと4、5千万円もする。それも何十年もの使用には耐えないから、買い換える必要があるという。ヴァイオリンのストラディバリウスやグァルネリも超高額だから、それらを購入しても、演奏家としての収入だけで元をとるまでに一生かかる。つまり一生無収入同然ということだ。しかし芸術家はお金が目的ではないから、経済の原則にあてはめるわけにはいかない。「芸術は世俗的な宗教である」という言葉があるからね。

 

 絵画教室というのは、新規参入者がほとんど居ないことからもわかるように、儲からない職業である。なぜ儲からないかというと、それは土地。今新規に開業しようとすると場所の確保のために家賃がかかる。私の住んでいる東京都荒川区でも坪一万円前後の値段なので、開業繁盛しても場所代だけで月謝収入と相殺となってしまう。住宅を購入した場合はローン返済が賃貸よりも事実上高額になる。住宅ローンはデフレの進行とともに負担が重くなる仕組みとなっている。

 立派な建物で絵画教室をやっている人も居ることは確かだが、こちらは主に有閑マダムの道楽といったところである。建物の器が立派でも先生の器がイマイチなのである。

 

 サラリーマンの給与には、生活費の他に、住宅費、子供の教育費、配偶者養育費が含まれている。将来改革が進むと、サラリーマンの収入から、住宅費、教育費、配偶者養育費が除かれる可能性があるという。すると現在年収600万円の人は250万円ぐらいになってしまうそうだ。

 

 少子化が進行して、もし一人っ子同士が結婚すると、将来それぞれの親から相続する資産が余ることになる。親の世代は住宅ローンで四苦八苦であるが、子供の世代は楽観的だ。そうなると、年収250万円でもやっていけるのである。

 今でも個人商店や家内工業をやっている人は、現在すでに住宅ローンを返済してしまっている人たちがほとんどだ。僅かな売上げと年金とを合わせて家計を維持していることが多い。当然ながら投資余力など無いし子孫に後を継がせない。しかしそれでもあわてないでやって行けるのだから、彼らはある意味でリッチとも言える。

 

 親が息子を医大に入学させるには、高い入学金や授業料を納めなければならない。その費用は数千万円にもなる。その子が晴れて医者になって数千万円を稼いだ時に初めて元がとれる。稼いだ利益は利息を付けて出資者に償還する。

 ゲーテのこういう言葉がある。「経済的に正しいことは倫理的にも正しい」

 普通の人の場合、親が息子を大学に進学させるのに要した費用(正確に言うと、18歳から上の教育費と家賃、管理費、修繕費、食費、調理費、光熱費、税金、年金、健保、事務費、お小遣いなどの生活費)は親の出費である。親は息子に元手をかけているのである。 だから息子は将来就職したら、稼いだ上で出資金を親に返済しなければならない。返済した時点でその息子は成人したと言える。親は元がとれたというものだ。いつまでも未返済では、その息子の生物年齢が何歳であろうと、経済的未成年者である。

 さて、息子が結婚することになった。経済的未成年者が結婚する時には親の同意が必要である。親の口出しは避けられないし背けない。その息子と結婚する相手の女性は、そのことを十分にわきまえておく必要がある。「彼の収入はすべて私たちのものよ。遺産(資産)は、子なのだから当然相続するけど、親の面倒は看たくないわ」ではムシが良すぎる。借金を返済して大人同士の結婚をするべきだ。援助と束縛は表裏一体である。さらに付け加えると、親の介護をするから他の兄弟に優先して相続出来るのである。

雑感二題(2000年前後に書きました)

 結婚式の引き物も最近では平凡なものでは満足されなくなってきた。時代による価値観の変化もあって、今では引き物産業は工夫を凝らしてしのぎを削っている。

 ある日カタログ形式の引き物パンフレットが届いた。「どれにしようかな」と見繕っていると、母が指さして言った「ざる」。「なんでざるなんだよ~。液晶テレビとかデジカメとか、もっといいものがほかにもあるだろ」。「いや、ワシャこれが欲しかったのよ、ざる」。

 別件で、今度はお葬式の引き物で白色の高級シーツが送られてきた。

 私は言った「お葬式の白い布、これなら安らかに眠れる」。

 

絵画教室生徒のE君が言った。「オレ子どもの頃、拳が口に入ったんだ」。

「おー!すごいじゃんか。それほど口の大きい人は出世するって言うよ」。

「でもカッコわるいよぉ~。少し前だけど、まだ出来るかと思ってやってみたんだ」。

「できたのかい?」。

「コブシがとれなくなって、アゴがはずれちゃったんだ」。

この話があまりにも面白かったのでイラストを描いてみた。

雑感二題(2000年前後に書きました)

 2002年4月上旬。この時期は例年だと桜が満開だが、今年は暖かかったせいか、もう散ってしまっている。桜の花を観光目玉としていた旅行社はキャンセルが相次ぎ四苦八苦である。観光だけではなくて、たとえばブティックも半袖製品が不足して、緊急注文を受けた工場は目が回る忙しさだという。

 M氏は京都の花見観光を計画していたが、間際になってキャンセルする気力も無いのでこれを決行した。行ってみるとさすがに葉桜となっていたが、まだ満開の所もあった。ある寺には「桜満開」という大きな字の張り紙があった。お寺のお坊さんたちは(桜が散りませんように)と日夜仏さまに拝んでいるそうだ。一年の掻き入れ時に拝観料収入が減ったら生活にかかわる。信仰上の一大事なのだ。

 

 あるお嬢さんが言った。

 「ともだちはキャバクラで月40万円稼いだんだって。札ビラを目の前でヒラヒラさせるのよ。私も40万欲しいわ。あ~ぁ40万。ブランド物が欲しいわ。だってわたし今電話代だけでピーピーよ。」

 「あのね~。学生だったら学生の、OLだったらOLの収入で買えるような物を身に着けていれば、かえって人から好感を持たれるんじゃないか?君くらいの年齢の人がヴィトン、グッチ、シャネルなどを全身にゴテゴテと身に着けていたら不自然過ぎて、かえってその筋の人に見られてしまうよ」

 

 私たちおじさんおばさんも地位のブランドを欲しがっている。たとえば展覧会で自分の作品に自信が無いと立派な額縁でごまかす。それでもだめなら立派な会場でごまかす。それでもだめなら役職名で威かす。それでもだめなら業者にカネを出して海外で受賞して来る。それでもだめならエライ人を前面に立ててその威を借りる。それでもいよいよだめなら高価な衣服を着て上品な言葉を使うしかない。

 虚栄心があるから人間は進歩向上するのだが、しかしやはり借り物や模倣は冷静に見ると、どこか変なのである。ある宗教施設を訪問したとき、係の女性が気取ったような儀式ばった妙なポーズで客にお茶を出してくれたことを印象深く覚えている。

 ある少年少女合唱団は、コンサート入場の時に日本古来の「鷹の舞」風に太鼓の音とともにゆっくりと入場行進していた。当のご本人たちは真剣なのだが、これらは時間をおいて遠くから眺めると、ある意味でコッケイである。実力に応じたスタイルというものはなかなか実行できないものだ。

ホームレス雑感(2000年前後に書きました)

 友人のY氏に電話が鳴った。「上野警察ですが、名刺入れを落としましたか?」先日東京上野の国立博物館に行った時に落とした名刺入れが届けられたというのである。現金は入れてなかったが、名刺のほかにクレジットカードも入れていたので、落としたことに気づいた時Y氏は一瞬焦った。早速受け取りに行き「どなたが拾って届けて下さったのですか?」と聞くと、「名字がSさんで、無職で住所は不定です」と言われ、お礼の出来ないまま無傷の名刺入れを持ち帰った。

 上野公園で拾って無職で住所不定となれば、あのビニールハウスの住人の方々に違いない。Y氏の価値観に微妙な変化が生まれた。

 隅田川の尾竹橋の下に居を構えているホームレスを観察に行って「広い敷地で洋服箪笥もある、意外とリッチな生活だ!」と眺めながら感心している。

 以来Y氏はコジキにある種の尊敬の念を抱き始めているようだ。

 

 望んでコジキになったか望まざるかは知らないが、彼らは社会の価値観外に生きている。われわれ凡人はいくら社会の価値観に少々疑問を持っているからといってもそこまで徹底できない。

 昔の武士が僧になることを出家するという。出家とはホームレスになることである。僧になるということは、物欲を捨てて、修道院や芸術家と同じ精神世界の住人になるということである。

 

 様々な職業を経て画家になった人というのは、統計的に元自営業者が圧倒的に多いそうだ。大企業サラリーマンから芸術家になった人は非常に少ないという話である。自分の意思を抑えなければ組織の優等生にはなれないからだ。

 大組織風に「あなたは何々さんを好きにならなければならない」と権力者から言われたら、間違いなく私は何々さんが嫌いになる。そのような言い方は間違っていると思う。「私は何々さんが好きだ」というのが正しい。私は人間の口から「人々を愛しなさい」という言葉を聞くことがキライである。

 芸術家は自閉症の反対の自開症だから「私は何々さんが好きだ、だからその人のために何かしてあげたい」と言う。これで私も一種のホームレスになったかもね。

地名雑感(2000年前後に書きました)

錦糸町の読売カルチャーセンターの近くに190円のかけそば屋があったことは以前にも触れたが、最近それが220円に値上げしてしまった。悔しいのでしばらくその店には行かなかったが、久々に先日入ってみた。一般に、蕎麦屋の和風カレーは美味いので、今度はこれを注文した。これも380円と比較的安いのだ。

 ここのカレーライスは図1のように見える。ところがこれを断面図にすると図2のようになる。

少しでもカレーを多く見せたいという切ない願いが如実に表れている。

 値上げのショックは雑感に書かれるという形で晴らされる。食い物のウラミは恐ろしいものだ。ただし味の方は上々で、値段以上の満足感があったことを付け加えておく。

 

 切ない願いの具現化は、和服の帯の位置の場合も同様で、帯の位置がいかにもウエスト位置のように見える。私のような足の短いタイプにはありがたいデザインなのだ。

 

 埼玉県西北部に東毛呂(ひがしもろ)という地名がある。ある時ある人がこれが読めずに、駅で切符を買う時に「けろ」と言ったという。蛙の泣き声が賑やかな場所をイメージしたのであろうか。

 変った地名は多いもので、愛知県には“おだぶち”という所があり、千葉県には“かいじん”という名の駅があった。 

 

 ある日電車に乗っていたら女子高生たちが会話していた。「合コンに誘われて行ってみたら、皆お通夜みたいにしーんとして盛り上がらなかったのよ。つまらなかったわよぉ~。それにそこの駅の駅名が『ぞーしき』って言うの」。

 

 地名が与えるイメージは強いもので、大船渡、小名浜、八戸、三戸といった地名はいかにも暗くて、夜の漁港の裸電球の詰所で烏賊腸(いかわた)をつまみ八代亜紀を口ずさみながら漁師たちが飲んでいる姿を連想させるが、成城、田園調布、鎌倉というとハイセンスなイメージがある。

 ところが私の知人に青森と岩手出身の女性がいる。東京の人と結婚してこちらに住んでいるのだが、両者とも知的で美しくエレガントなレディだ。烏賊腸とは無縁のイメージである。土地で判断してはいけなかった。

 さて後日その話を弟の妻にしたら「あら、私、荒川区町屋だって烏賊腸だと思っていたわ」。へぇ~ぃおそまつペンペンペン。(注…小田渕、海神、雑色)

さこく雑感(2000年前後に書きました)

 錦糸町駅ビルにかけそば税込190円の店がある。味もそれなりだが安くて低カロリーなのが良い。ある日そこで190円のかけそばを食べた。店員がナヨっとしていておカマっぽいところが気になるが、十分腹の足しになった。さて、そうだあのおカマをじっくり観察してみようと見て驚いた。やや年配の女性だったのだ! 短髪でボーイッシュなスタイルだったからわからなかった。店員さん、ごめんなさい。

 店を出る時に「いってらっしゃーい」と送ってくれた。カルチャーの先生に行く前だったから教材を詰めた旅行風のバッグを持っていた。

 

 旅行で何が一番楽しいかというと、旅行から帰ってきて「ああよかった、火事で家が燃えていない、泥棒が入ってない」と確認した時である。旅行の喜びはまさにこの瞬間にある。

 しかし「こんなアホと付き合っていられるか」と周囲の人たちは独自に旅行の計画を進めているようである。

 

 しかし私は外人は好きである。違った発想をしてくれる。

 その昔、鎖国というのがあった。そのため日本は発展が遅れたが、反面国風文化を成熟させることが出来た。独自の文化を所有することで今日本は諸外国から尊重されている。もし、鎖国しないで普通に交易していたら技術文明は発達したが、オリジナルな文化は育たなかったであろう。

 個人レベルでも同様ではないかと考える。

 年齢性別を問わず、およそ魅力ある人物というのは、人生のある時期に個人的鎖国をしている。

 私の身近な二人について話そう。

 彼女が修道院を出て世俗に戻った後で、私と知己を得た。

 ある日彼女がこう言った。「離婚したようなものだと言われます。今たしかに事務仕事も何もできません」

 しかし彼女は他に無い宗教的体験とプロの声楽家としての実力を持っていた。

 

 親とともに若い時期にブラジルに渡ったある人は、日本に戻って来た時に自分がスペイン語が出来ることに気づき、その後通訳となった。彼は外国人と接する機会が多く、広い視野から人間の生き方を捉えることが出来る人になっていた。

 個人的鎖国といっても、なにもルバング島のジャングルで長年暮らす必要はない。

 流行から遅れ、人との付き合いも少なく、恋愛も忘れ、ただひたすら何か(忘我するほど好きなこと)に熱中するというのは、平凡な人から見ると悔しいことだが、考えようによっては幸福なことかもしれない。このような人というのは、たとえて言うと大地にしっかりと根を張ったような人物で、開花の源を持っている。

 反対に、流行に敏感で、何事もセンスよくこなせる一見素敵な青年男女が将来魅力が褪せていく理由もよくわかる。根の無い切り花だからである。

 私はかつて何故女子校や男子校のような旧式の形態が存在するのか考えたことがあった。今、当時の結論---ムシ除け---に付け加えることが可能となった。性別校は、気を散らさず個人的鎖国をすることが青年にとっていかに大切かを制度化させたものだったのだ。

語雑感(2000年前後に書きました)

 日本語というのは難しいもので、同じ言い方でも理解のしかたが個々違う。たとえば「包丁男」と言ったら、包丁を持って誰かを襲う怒り狂った男のことだと解釈するが、「ハエ男」と言うと、アメリカ映画に出て来るような、放射能によって顔面が蝿と化してしまった人間だと解釈する。顔面が包丁だから包丁男ではないのである。

 

 ピロピロピロと電話が鳴る。「はい、どちら様ですか」「京成堂です」「京成堂さんから電話ですよ」「???」。

これは「木城です」を「京成堂です」と聞き違えてしまったのである。木城さんは茨城県出身で、少しなまりが残っている温かい感じの人なのである。

 

 近所の家から声が聞こえてくる「たまねぎかなたまねぎかな‥」。変だと思って耳をすませてよく聞くと「たまねぎかな」ではなくて「南無妙法蓮華経南無妙法蓮華経‥」と早口で唱えていた。声に張りがあり、精力的なトーンに聞こえる。このようなものは、念仏というよりもカラオケに近いものであろう。これならばストレスが発散されて病気も治ってしまうに違いない。

 

 大晦日の紅白歌合戦で、三波春夫の歌「待ちに待ったこの日こそ、主君の恨み晴らさじと、ヤマガ流の陣太鼓、バッタバッタと斬り倒し、ペペンペンペン、吉良の首を討ち取ったりぃ~♪」と、七五調であの声であの節回しでにぎやかに威勢よくやると、歌った御当人は「あ~スッキリした~」と、あれもさぞやストレスが発散されるに違いない。だから三波春夫の顔はいつまでも若々しい。

 

 知人O氏から聞いた話を。-----絵の写生会があった。その日は日本民家園に行くことになった。さて、その一団が日本民家園に到着した。いざ入場しようとすると、係員が制止して言った。「日曜日の写生は禁止となっています」「お願いしますよ人の邪魔はしないから」「だめです。規則です」「平日のようにすいているよ」「だめです。規則です」「たとえば仮にですよ…」「仮にでもなんでも駄目です」

 押し問答の末、あきらめて帰る道すがら、悔しまぎれにO氏がこう言った。「ああいう男は胆のうが悪いんだ。さあみんな、胆のうの悪いやつなんかに関わってないで行こう行こう」。

THE雑感(2000年前後に書きました)

 ある人から肖像画を頼まれて引き受けた。しかし、いろいろ工夫してみたが、どうしても出来ないので、ついに勘弁してもらった。自分ではできると思っていても、やはり一度も面識の無い人をその人の性格にまで迫って克明に描くということは難しいものだ。安うけあいをして迷惑をかけてしまった。

 

 携帯電話は、若い人を中心に普及しているようだが、何故若い人が多いのか考えてみた。昔、本屋で立ち読みしたショーペンハウエルの本にこう書かれていたのを覚えている。「ドアをノックする音が聞こえると、若い人は、愉快な知らせが来たと感じるが、歳をとった人は、厄介な知らせが来たと感じるものだ」。携帯電話の呼び出し音は世代によって違って聞こえるのかもしれない。

 

 結核菌や帯状疱疹などの体内に潜むウイルスは、普段はおとなしくしているが、宿主の体力が落ちた時に大増殖して発病するという。

 ストーブの石油を20リットルタンクで買いにいく。重い思いをして歩いていて、犬の居る家の前を通るとワンワンワンと吠えられる。(このクソ犬!)と思ってもどうにもならない。タンクを持参していなかった時には吠えなかった犬が、苦しそうに歩いている人に対しては吠えるのである。犬というのはやはり野獣で、自分より弱いと見た存在に対しては攻撃の牙をむきだし、自分より強いと見た存在に対しては小さくなる。その点で犬も菌も同様に生物界の法則に従って生きているというわけだ。

 飛躍して考えて人間界も同様。相手を自分より下と見ると横柄になり、自分より上と見るとコッケイなほど卑屈になる。人間にはまだまだ野獣性が残っている。

 

 現代日本人の大多数は、他人がつくった作品のおもしろさを追求することに歓びを見い出している。テレビ、ラジオ、映画、演劇、遊園地、衣服、建物、本、自動車、などなど。他人がつくった作品だからそれを味わうために他人にお金を払う。その反対にお金が欠乏すると歓びも欠乏する。

 

 自称極貧となってみると、物事工夫を凝らすようになってくる。自動車が無いから仕方なく歩くようになる。するとやがて足腰が強くなってくる。「仕事を休んだら食いっぱぐれる」などと思うと風邪をひいて休んでなどいられないから、休まないためのあらゆる努力をした末に「神様ご先祖様」と北と西に向かって拝む。結果として気力と抵抗力と信仰心が増して心身が丈夫になる。それに人間忙しければ悪い考えも湧かないというものだ。淀んだ所が腐るのである。

 

 今は大失業時代だ。私が思うに人々の収入が今の半分になったらどんなに失業率が解消するだろうか。2倍の雇用が創出される。みんなで助けあって共存することが可能である。だから「給料が半分で良いからリストラするな」と主張する労働組合があってもよい。

 あるいは、たとえば年収800万円の高給サラリーマンは、たいてい毎日が自称忙しくてストレスで過労死しそうだと言っている。それならば、その人が自分の年収の中から400万円で補佐人(家来)を雇ってみてはどうか。年収200万円の家来が2人も雇えるではないか! 自分を含めて1人で3人分の働きが出来るのだからスーパーマンである。高給サラリーマンを雇っている会社も文句は言うまい。

 昔の石高、三万石とかいうのは、その大名の収入であることは周知の通り。その収入で家来を雇う。大名の石高によって家来の数がわかる。 だからこのような補佐人を雇うような考え方というのは、歴史によって裏付けされている。個人が殿(との)になりたまえ。それが失業対策である。

 

 スペイン語や英語がペラペラ出来るとカッコよいが、勉強しようと思っても、もう自分の歳だと手遅れなのであきらめて、最近は外国語ならず内国語を勉強している。

「会社に行ったら銀行へ行ってしまって帰ってきたらお買い物だったの」というような言葉を解釈するのが内国語の勉強だ。翻訳するとこうなる「私が会社に出勤したら、社長夫人が『銀行に行く』と言って出て行ってしまったの。しばらくして社長夫人が帰ってきたの。その様子を見てわかったんだけど、彼女が行ったところは銀行ではなくて、実はこっそりと自分のお買い物をしていたのよ」

 言葉というものを、どのような感覚で使っているのかは、個人個人でみな違う。すべての人が自分語を持っている。

 

 これと似たようなことが絵でも起こる。花の絵がここにあるとする。それを見て、それが植物のしくみを表わしているのか、自然の美を表現しているのか、花にあたった光が主題なのか、色彩の美しさを見てもらいたかったのか、風刺なのか、花に自分の姿を投影させているのか、青春の喜びを表現しているのか、花言葉を伝えたかったのか、人の名前と花の名前との掛け言葉を面白がっているのか等々。絵を描いた本人だけは解っているが、鑑賞者には解らないようなことが多い。

 アイマイな言語からも的確に解釈出来る人は語学堪能である。

雑感アラカルト(2000年前後に書きました)

 有閑マダムの個展に行って来た。たくさん驚いたことがあった。案内状の印刷が高級でセンスが良く、品のある会場で、センスの良い服装で、礼儀正しく、頭が良く、饒舌で、感じが良く、受付嬢が美人で、額縁が高級品で、来客の肩書きが立派で、おまけに素敵なクラシックの音楽がBGMに流れている。絵を除く額から外はすべて完璧なのである。以上。

 

 掃除をしていて古い段ボールを解体しようとしてふと見ると、古いので色が茶色に変色してしまっている。ハサミを持ってくる。ジョキジョキと円形にくり抜く。くり抜いたものを教室のそこらに置いておく。「おっ!10円玉だ!」「なんだ紙じゃないか」と、その様を見て密かにほくそえんでいる。最近こういうイタズラがこの上ない楽しみとなってきた。

 

 先日北千住の回転寿司に入った。以前に私は「回転している皿を増やして鮮度が落ちたら値下げせよ」と書いたが、ここの寿司屋はすごかった。寿司がまったく回転していないのだ!つまりベルトの上にはまばらに皿だけが乗っていて、皿の上には寿司が乗っていない。すべて客が声を出して注文するようになっているのだ。気が弱くて声が出せないから回転寿司に入るのに「フル発声しろ」ではいたたまれない。さっそく一皿も食べずに逃げて来たという次第である。

 

 お風呂のお湯を節約しようと、湯舟にお湯を5分の1だけ入れる。人が入れば3分の1ぐらいにまで湯量がふえたように感じられるから、経済的である。しかしこれも度がすぎるとみじめなことになる。底にへばりついて入浴する様を湯舟の真横から見ると頭髪のテッペンだけが外から見える。

2000年雑感(2000年前後に書きました)

 89歳で亡くなった近所の人のお葬式に行った。

斎場でお焼香を済ませ、下がろうとすると、葬儀社の人から「券をお持ちですか」と聞かれる。券を出して清めの塩などをもらう。すると、葬儀社の別の係の人がつかつかと私に歩み寄り、こう言った「靴底が剥がれています」私「えっ?」葬儀社の人「これです---お確かめ下さい」と言って靴底の残骸を手渡された。私(「ギャー!」)

 これほど驚いたことはない。見ると、私の靴の底が三分の一剥がれ落ちているではないか!本体の部分は、厚さ1ミリの皮で辛うじてつながっている。さらにみるみるうちに残りの部分も剥がれ落ちようとしている。どうりで足の裏が涼しいと思った。もはやこのままでは生きていけない。すごすごと斎場を退散したことは御想像の通り。自転車でよかった。

 専門家に聞いてみたら、(安物の)靴底というのはウレタンで出来ていて隔年変化によって加水分解するのだそうだ。10年も同じ靴を履くことは少ないということである。(新年早々お葬式の話題で恐縮でした~)

 

 これも恐縮だが、“ミレニアム2000年”と言っても暦の上の数字なので、何の実感もないから、さわぐ気にもならない。21世紀はどのような時代になるかというと、後始末の時代となるそうだ。この100年間、人類はさまざまな革新的なことに明け暮れて疲れてしまったので、これからじっくりと休みながらそれらを消化するのである。大気が汚染されたから今度は反対に清浄化につとめるとか、人口が増加しすぎたから今度は減少に向かうとか、抽象絵画があまりにも進み過ぎて理解出来なくなってしまったので古典的な絵画に戻る 等々。とにかく反対の方角に行くということである。歴史は循環している。

 

 学級崩壊が問題になっているが、それについて一言。義務教育をやめて自主登校にしたらどうだろうか。文盲がおイヤならばしつけて登校させよと言って、先生も薄給の聖職者に戻って威張っていればよい。学級崩壊する余裕など無くなる。歴史は循環しているから、ちょっと前の時代に戻るだけである。

 

 小判が葉っぱだったことに気がついた時「キツネにつままれた」とか「タヌキに化かされた」とか「ただのカボチャだった」とか言う。最近見たデパートのチラシに売れっ子現代日本画家の展示会が載っていた。値段を見てビックリ。現存日本画家の作品が何と2,500万円だそうだ!どう見てもそれほどの傑作には見えない。昔話はちゃんとここに生きている。化け物は姿形を変えているだけかもしれない。

儀式雑感(2000年前後に書きました)

 アメリカ大統領が来日して歓迎式典を行なう時に普段着で臨む者はいない。かならず正装をする。言葉遺いもよそ行きの言葉である。その上に生活感の無い場所で式典が行なわれる。オペラやバレエや展覧会に出かける時も普段着は着用しない。取引先と大事な契約をする時にも普段着ではない。自宅で普段着で「約束しましょうね、ちやんちやん♪」という感じで結婚式を拳げる人達はほとんどいない。

 私たちは何か重大な決意をする時や神聖なものに触れる時には心身共に普段着ではないのである。その価値の重要度に応じてそれにふさわしい言葉と場所と衣服が選ばれるのである。

 

 第二バチカン公会議以降、日本のカトリツク教会のミサにラテン語式文が使われなくなって口語体の典礼聖歌が採用されてガックリ来た人が多かったのではないかと思う。聖公会とカトリック教会共同訳の口語体の“主祷文”がカトリック新聞に紹介されていたが、あれはとんでもないことだ。これらのようなことを推進する人たちは儀式の役割を理解していないのではないかと思う。儀式と勉強会との区別がつかないのかもしれない。(註;今は退会しましたが、この当時私はキリスト教にハマっていました)

 式文がわかりにくいから儀式らしいのである。

 儀式というのは、感性の部分を管轄しているのである。理性や悟性を管轄している“教え”や“式文の意味”は勉強会で聖職者に教えてもらうことになっている。

 

 イコンや仏像は、人であって人にあらざるものという意味で、あのように人神兼備の形をしているのだが、式文もまた人神兼備の形態をとる必要がある。ラテン語や文語体の式文というのは儀式の目的と合致している。

 儀式が身近で親しみやすくなると奇妙なことになる。教会が儀式の中に日常的な親しみ易い要素を取り入れるほど、教会が重大な決意をしたり神聖なものに触れる場ではなくなってくる。教会は軽い場所となる。軽いミサになる。その反面儀式が軽くなった分だけ信徒のまじわりが儀式ばって重くよそよそしくなってくる。自然は不足しているものを補おうとする。

 普段と違うから、改まった気持ちで決意ができるのである。昔の日本人は年末に掃除をしてお正月には正装をして一年の計を立てていた。このような文化の知恵を取り入れることが真の土着化の第一歩でもある。キリシタンバテレンの時代、ラテン語の聖歌と式文だけでもあれだけ土着化したではないか。現代語訳の式文や典礼聖歌など必要ない。スローガンによって作られた音楽は、駄作がほとんどであるということは歴史が証明している。

 

 さて、この原稿を書いている時(2月上旬)テレビからニュースが流れてきた。「脳死判定」「臓器移植手術わが国初」---これについて少し----。私は脳死も臓器移植も認めたくない。しかし臓器移植によって助かる人が居るということもあり、その最終的な可否は神様に御判定願うとして、しかしそれでも私は敢えて一言云いたい。「ヒトの生き肝(いきぎも)を抜いて食べて治療にあてる話は民話の世界だけかと思っていたら現実にもあった。やはりすごい効き目のようだ。」

センセイ雑感(2000年前後に書きました)

 絵の技法書の愛読者は概してアマチュアで、プロは絵の技法書など読んだりしない。進歩の栄養を、自分の失敗や苦労の中から学び獲得している。いいトシをして技法書を読むのは薬から栄養素を摂っているようなものである。

 

 絵画教室をやっていると、いろいろな人が入ってくる。真剣に勉強したいから絵画教室を訪れるのだが、二年に一人ぐらいの割合で、学ぶ以外の違ったことに関心を持ってしまう人もいる。はじめは素直に聞くのだが、やがて指導方針や経営にまで関心をもってしまう。そのような人に「こうあるべきだ」と言われると、なるほどと思う。しかしその人はやがて批判してやめていってしまう。近所の絵画教室から「誰々さん、やはりそっちに行きましたか?」などと後で連絡が来たりする。そのような人は、きまって方々の絵画教室を渡り歩く。後にその人の作品を見る機会があって、見てみると、やはり進歩していない。先生が悪いのではなくて、その人に問題があったのだと判定せざるを得ない。

 考えてみると、彼らは一種の信念を持っている。絵の本を読んだりしてそれなりに勉強している。その「読んだ本」というのは、高名な評論家の著作であることが多い。有名に心酔してしまう。ところが絵画教室は主に基礎を教えるところなので、習う人が基礎を習得するにはそれなりの時間と根気が必要となる。この〈根気〉という能力が至らない上にアタマが良いと、無名の先生の言うことなどおかしくて、していられなくなる(ちなみに昔の画家は師匠の絵を模写して覚えた)。個性優先主義理論のおかげで、頭でっかちとなってしまう。進歩を阻む呪いをかけられたようなものだ。催眠にかかっているとは当分気がつくまい。個性と癖とは違うのだよ。

 

資源を掘り起すこと。

 私は音楽が好きで、クラシックのCDを買うと、はじめは(失敗したな)と思う。それでも捨てるのはもったいないので、半年ぐらい経ってから再び聴いてみると(少しいいな)と思う。一年ぐらいしてから聴くと(買ってよかった)と思う。さらに、(同じ作者の別の作品も聴いてみよう)と思う。こうやって木の枝が広がるようにして視野が広くなる。

 優れた作品はすぐに理解できるものではない。作者が聞く人に合わせるのではなくて、聞く人が作者に合わせる。作者は鑑賞者に媚びていないのである。自分のほうから作者に歩み寄ることが大切である。ちなみに、今新約聖書を新刊本として出版したら、売れないこと間違いない。商業主義の時代には客に媚びた作品を書くしか生きる道はない。

 

 どんなヘッポコ先生でも、一応先生をやっているからには、それなりの勉強をしているものだ。名作は聞かれたときにだけ返事をする。聞いて聞いて聞きまくって、先生の骨の髄まで養分を絞り取るぐらいの心構えがあれば上達する、と断言できる。せっかく月謝を払っているのだ。モトをとらなければもったいないではないか。

色形雑感(2000年前後に書きました)

 最近私はデジタルカメラを二台買った。一台は仕事用の200万画素機。もう一台はメモ用のおもちゃデジカメ(Che-ez)。

 このおもちゃデジカメがなかなか楽しい。一般に男性はさほどでもないが、女性をカメラで撮ってあげようとすると「ヤ!」と言われることが多い。あまりにもリアルで鮮明に写り過ぎているから「ヤ」なのだそうだ。ところがおもちゃデジカメで撮影されたおもちゃ画質の写真を見ると「あらん、意外に良く写るのね」と気を良くしてくれる。鮮明過ぎないのはいいことだ。でも図1程度には写る。

 

 写真から絵を描くことも時々ある。こんな時におもちゃ画質の写真を参考にすることもある。鮮明でないから全体像を真っ先に掴むことができる。写っていない部分は想像で補う。絵というのは一種の翻訳である。自然界には良いものと悪いものがある。印象に残った良い部分を採用し悪い部分を切り捨てることで、見やすい分かりやすい絵ができる。

 絵を描く上で最も大切なのは全体像である。たとえば初心者が顔を描くと、頭が小さくなってしまって鼻の下が長くなる。人物全身像を描くと、はじめに頭部から描き、順に下へと向かって描く。その結果画面がたりなくなって足が短くなって、頭デッカチの人物画となってしまう。頭デッカチにならないためには頭を描くときに足先を意識して描くようにすることだ。

 

 絵を味わうには、色形を現実世界に置き換えてみると、さらに興味が増す。物は光があたらないと見えない。顔に光があたれば影が出来る。人間の心には光の部分と闇の部分があって、たとえばキリスト教の聖職者が酒好きで赤ら顔をしていたりする。物にあたった光が強ければ強いほど影も強烈になる。きれい事を掲げる人ほど満たされない心がトグロを巻く。

 光と影を合体させたものが現実というものだ。影が無いのは幽霊である。

 会議で検証されたはずの決議を実行したら的外れだったという企業も多かろうと思う。

 目と鼻と口の各パーツ同士はプロポーションが良いのに、それらが顔の輪郭と合っていなかったために図2のように脳が無い人物となってしまったというのと似ている。そう、全体のバランスを無視することは少脳に等しいのだ。

 デジタルカメラで画素合戦が繰り広げられているが、日本人は能力にこだわり過ぎるのではないかと思うことがある。

 何十人も同時に縄跳び出来たかとか、大きな壁画を描いたからギネスブックに申請しようとか。 そもそもギネスブックというのは、実用上の記録を載せるものだ。レンガ職人が早く仕事を片付けたというような事を。ただ単に数字が伸びれば良いというものではない。

 有名大学を出たということは、切符を手に入れたようなもので、肝心なのはその切符を使って何をしたかということである。切符を持っているだけでは偉くも何ともない。

 絵を描くということは、色形によって考察する遊びでもある。

雑感三題(2000年前後に書きました)

 新年になって今年の目標を考えてみたが、はて大して浮かばない。去年は病気をしてドタバタしていたので、すっかりライフワークをさぼってしまった。体調の変化は心境の変化につながる。今まで見向きもしなかった健康食品に関心を持つようになる。わが身に迫る中年の年波。高麗人参を飲んでは「これ効くぞ」と興奮している姿など憧れの彼女には見せられまい。

 ストレスは発散したほうが健康に良いが、さてどうやって発散させるかというと、これがなかなかわからない。しかしためておくと死後に浮遊霊となってしまうかもしれない。やはり案が出ないので、こうやって雑感に書く程度にしておきまひょ。

 

 近所に「やぶ栄」という蕎麦屋があった。そのそば屋は妻が板前で夫が出前をする。夫は元公務員でアイソがよくない。しかし慣れると気にならなくなる。自転車に姿勢正しく乗り、肩に10人分のざるそばなど朝飯前。その地域に貢献する姿を見た彫刻家は、さぞや彼の出前姿を銅像化する誘惑に駆られるに違いない。

しかし味は最高で、いまだに一流そば店でもこの味には及ばない。

さて、そば屋にカツ丼の注文があると、店主の母が近所の肉屋にカツを買いにいく。その姿を目撃した人は「見ろよ、カツ買いにいってるぜ」と言う。カツ丼の出前をたのんでも届くのが遅い時には「肉屋が豚肉を仕入れに行ってるのだ」と言って待つことにする。

 

 最近、読売新聞紙上で奇妙な文を発見した。

 「人生設計をせよ」というテーマで、ある女性評論家が人生設計のシミュレーションをしていた。長くなるがここに一部を引用してみよう。

 

たとえば…「新卒で、企業に正社員で入社し、経理を担当。結婚後も産休育休を活用し、仕事に遭進。2人目出産と夫の転勤が重なり、退職して育児に専念し、キャリアブランク。ただし、子育て中もパソコンを駆使して情報を取り入れ、意識はキープ。下の子が2歳になったら、在宅でブレゼンの資料作りを請け負いSOHO生活。下の子が4歳になったら、派遣に登録し、時間限定、週2日稼働で杜会復婦。小学校に慣れたころから、契約社員でフルタイム。中学受験が終わったら、正杜員となりバリバリ定年まで働く。、孫が生まれたら、共働き夫婦をサポート。子育て支援サークルに入り、自分もボランティア。後、夫婦でNPOを作り、共働き世帯のためのサービス事業を展開」これは、ほんの一例。もちろん、ずっと正社員もよし。あるいは、子育て退職後、ずっと専業主婦でボランティア活動もよし。自分の価値観・能力、そして家庭環境・家族事情から、社会との関わり方をデザインしていく。

大切なのは、先々を見据えて、中長期の自分計画を立てること。その際、「何をするか」だけでなく、「どのようなスタイルで」といった働き方を熟考しておくことが、夢を実現可能にする鍵となる。

 

 この女性評論家は、時代がまったく変わらない上に人間が無病息災で順調に成長するものと見ているのだろう。この記事を読んであまりの傑作(?)に驚いたので、ここに書き記すことにした。以上。

雑感四題(2000年前後に書きました)

 最近身近で起こった出来事を。

 彼女の夫は自営業でキリスト教信者。教会活動に熱心で、日曜日には朝9時半から午後3時半ごろまで教会に行っている。彼女(妻)も信者ではあるが、それほど教会に行く人ではない。妻は夫の母(姑)と同居している。姑も熱心な信者である。舅は居ない。

 その日曜日も夫と姑は共に教会に行った。その日は妻が留守番である。さて二人が教会に行って、間もなくするとトラック二台が家の前に止まった。すると男達が家の中から食器棚や洋服箪笥などを運び出し始めた。午後3時半ごろ二人が教会から帰ってきて仰天した。家の中の妻(嫁)の荷物だけがきれいに無くなっていた。妻は別に部屋を借りてそこに引っ越してしまったのだった。妻は常日頃から「義母さまと別居したい」と夫に訴えていたが、なかなか聞き入れてもらえなかったのだ。事前に妻は決行の準備を綿密に行なっていた。これほど鮮やかな逃避劇なのだ。妻のほくそえむ様子が想像できる。

 フジTV系「こたえてちょーだい」に出てくるような事件ではないか。昔の人は「妻は夫の親と同居して親の面倒をみるものだ」と考えていたが、今の人たちは違う。苦渋の果てに「マスオさん」をやっている男性が増えてきた中でも、一部青年はイザとなると頭の古い人が多くて、なかなか現代の状況に切り替えられないようだ。

 そんな彼らには次の言葉を贈る「昔風のしとやかな女性をお望みならばお婆さんと結婚しなさい」。

 

 親の面倒をみるというのは相続が絡んでいる。

 年金財政が困窮していて、若い人の中には将来の給付水準が減ってしまうと危機感を抱き、「損だ」と言って納付しない人が増えているそうだ。しかし年金というのは世代間の扶助。若い世代が老世代を養うことを原理としている。だから若い人が年金を納付しないということは老世代を扶助したくないという意味となる。私は考えるのだが、古来老世代は資産を相続させるという方法で自らの老後の生活を確保して来た。若い世代は相続を前提として老親を扶助する。では年金を納めない若者対策としてどうするかというと、親世代は若い世代に資産を相続させなければよい。年金未納者には高率の相続税を課してみるとよい。消費税をアップして年金財源を確保するよりずっと効果的ではないか。

 

 少し古い話題だが、古賀代議士の経歴(学歴)詐称問題。批判されて泣いている古賀代議士を見ていて(少しかわいそうだな)と思った。日本はまだ経歴で人を判定するような古い体質が残っていると思う。人々が経歴に期待するものは、その経歴に応じた働きである。しかし相応の働きをしているのならいいじゃないかと、ヘソ曲がりの私は考えてしまう。

 ここで私が問題にしたいのは「実力詐称」である。こちらの被害者の方が圧倒的に多いのではないかと思う。身近なことから言うと、運転恐怖症のペーパードライバー。それでも就職用の履歴書には「普通運転免許所持」と書く。保母の資格を持っていながらピアノが弾けなかったりする。この場合には子供たちが被害を受けることになる。「聖心女子大卒業」と聞いて信用していたら、確かに表面は穏やかだったが、実体は根回し上手な策謀家だったりする。「医師」でもミスをして人を死なせてしまうこともある。代議士でも経歴倒れはたくさん居るではないか。

 経歴によらず、自分の目で確かめる能力を身につけないと実力詐称の被害者となってしまう。

 

 量販店などで、よく店員が「しゃしゃせぇー」と発音する。これは「いらっしゃいませ」の短縮形ではないかと思う。主に男性店員がよく発音する。発音するときに「……せぇー」の語尾の音程を上げて強める。なぜそう言うのか考えてみると、「いらっしゃいませ」と言うにはあまりにも明瞭すぎる。日本人は露骨な表現を嫌う。不特定多数の客に向って発する歓迎の意思表明は、ある程度の抽象性を持っていた方がなじみやすい。「しゃしゃせぇー」をもっと短縮すると「しゃせぇー」となる。これでも意思が通じるからすごい。さらに「せぇー」だけでも通じるからもっとすごい。誰が考案したのか知らないが、なかなかおもしろいので私は物真似をして楽しんでいる。

逆転雑感(2000年前後に書きました)

 宇宙には無数の星があって、銀河系だけでも一千億の星があるという。そして星の大集団である銀河がまた一千億もあるというからすごい。銀河は渦巻形をしていて、中心にはブラックホールがあるらしい。天の川とは銀河の腕、星の密集した部分である。

 さて、ここまで読んで図1、図2見ていただいてから種明かしをすると、図3、図4のようになる。図の正体は、星空ではなくて、アトリエの床に付着した絵具のシミをネガ反転させたもの、そして台風の写真である。自然現象には類似したものがある。白雲浮かぶ青空と飛行機から見下ろした地上は、よく観察しないと見分けがつかないほどよく似ている。

 

 自然の神様というのは、本人がひそかに願っていることを叶えてくれるものだ。手足を伸ばしてゆっくり休みたい、と思っていると、さて病気にさせてくれて、病院のベッドで手足を伸ばしてゆっくり休める。将来の心配をしていると、将来が無ければ心配ないだろうと、早く死なせてくれる。神様は自分の本心をご存知で、心から願っていることは何でも叶えられる。

 公団住宅がわずか5年間で半額以下に値下げされて売り出されたことで、以前に買った住民が怒っているというニュースを見た。怒る住民に対して気の毒としか言いようがない。まさか土地が値下がりするとは夢にも思ってなかったのだろう。しかし怒ってはいけない。たとえば逆に土地の値段が上がって儲かってしまったら、差額の利益分を公団に返しますか?と聞いたら、もちろん返すわけがないだろうから。

 

 ものごとにはプラスとマイナスの面があって、片方だけを見ては正しい判断が出来ない。

 絵画教室に描きに来るかわいいお嬢さんが心理学の方面に進むことになった。私もそれに興味があるので、彼女が来ると話題が盛り上がる。特に絵と心理学の共通点“アートセラピー”がおもしろい。アートセラピーの詳細は略するが、これについて私なりに考えてみた。

 図5の絵は、落ちて行くように見えるが、これを上下逆転させると図6のようになって、飛び出しているように見える。リストラなどで(追い出された)と考えている人は、逆転させて(羽ばたこうとしている)と考えることで救われるのではないか。

図7は名画である。暗い背景に浮かび上がる神の光を浴びた人物。まるで闇世に咲く美しい信仰の花のように見える。しかし図8のように明暗を逆転させると、実は世が明るく幸せに満ちているのに気付かず、人物だけが暗く落ち込んでいるように見える。神を信仰し過ぎるような心理状態の人は問題を抱えていることが多い。

ファッション雑感(2000年前後に書きました)

 絵画教室生徒のかわいいお嬢さんが就職試験で面接を受けることになった。「私は何も出来ないし、実は仕事なんてやりたくないの。給料をもらってOL気分を味わって楽しみたいのよ」こんな人を雇いたいと思う会社も無いだろうが、こちらも一応相談を受けたからには何かアドバイスする必要がある。

 そこで「今の若い人って、発音のアクセントが変だろ?たとえば『私わあー、貴社のおー、ここがあー、気に入ってえー』と語尾を強める。そこでこうしてみたらどうだろうか『私は貴社のここが気に入りました』と語頭にアクセントを置いて発音したらいいんじゃないか?会社の面接係は面接者の言葉の内容など聞いちゃいない。アクセントの美しい日本語で話せばそれだけで君は光り輝いて、ライバルに差をつけることが出来るよ」。

 声楽家は「私わあー、きのおー、むかついてえー」などと発音しない。抑揚ある美しい発音で会話する。発音のアクセントが美しいと魅力的に見えてくるから不思議なものだ。私もこれで何度声楽家にだまされたことか(笑)。発音は発声につながる。

 語尾強調発音モードにハマってしまった若い女性たちは、自分が音痴であることに気付いていないようだ。

 

 美術というのは科学と違ってあまり進歩しないものだ。学生は美術学校で美術史を習うが、その結果、消化不良の学生は卒業してからも写実的な絵をバカにして奇妙な抽象画ばかり描くようになる。彼らはこれを「革新または個性」だと思っている。奇妙な絵を受け入れる美術団体もあるから、なおさら確信を強める。在野系の美術団体では、あらゆるタイプの変人が受け容れられている。ちなみに「美術の革新」とは、印象派、キュービズム、フォービズム、表現主義、シュルレアリスム、未来派、アンフォルメル、ポップアート、安井様式などなど。

 私は、あまりにも革新や個性にこだわる人は脳に損傷があるのではないかと思う。名画は「何々主義」に囚われなかった作品に多い。

 その反面、超保守的な作品を制作する一群もある。これはアマチュアルートで美術の世界に入ってきた人に多い。彼らのように明治時代の絵をいまだに最上と信じて疑わない人たちをみると、不自由でかわいそうで、彼らの国籍は北朝鮮ではないかとさえ思ってしまうほどだ。

 私は、美術史とは、実はファッションの変遷ではないかと思う。時代の流行に従っておけば間違いない。しかし着用ファッションにばかり凝りすぎて勉強をしなければ、将来仕事も結婚生活も望み通りに行かなくなってしまう。たしかに服を変えれば気分が変わることもある。しかし人柄の良い人はどのような服を着ていても素敵に見える。

 チャチなホームページでも、書かれていることが人生を変えてしまうほど素晴らしい内容であったり、フラッシュを使ったカッコいいホームページでも必要な情報が何一つ書かれていなかったりする。外形だけの革新は、たとえば紙に色を付けたり、蛍光色のインクを使った本を出版するようなもの。服装で言うと、ファッションショーのようなものだ。これらはやがて人々から愛されなくなって消滅する。若い人には、時代の成功者の姿に囚われずに本質をしっかり把握することを勧めたい。成功者が金持ちや美人だからといって、その言葉まで聞くに値いすることはないはずだ。