現場主義

現場主義というのがあります。

たとえば風景を描く時に、カンバスを現場に持参してその場で最後まで完成させてしまう、ということを信条にしている人たちと、その考え方です。

そんな人の前で「私は写真を見て絵を描きました」などと言おうものなら、非難と軽蔑の雨嵐攻撃を受けること間違いがありません。

世の中には、絵はすべて現場で完成させなければならない、あるいは現場で描かれた絵が優れていると考える人が多いと思います。

たしかに現場で制作することには困難が伴います。時間もかかります。道具の量だって並大抵ではありません。

「見ろ、ここまで努力してこそ立派な絵が描けるのだ、俺はプロだ」と言っている姿が浮かびます。

 

たしかに現場で取材することには価値があります。風景の微妙な光や色調は現場でなければ得られません。あらゆる絵画は現場の観察をもとにして描かれるべきだと思います。人物画だって生の人間に接しなければ、まともに描けるものではありません。

しかし、それは「最後まで現場で仕上げよ」という意味ではありません。

 

現場まで行くのは大変なことですが、そこで描く絵は、楽そのものです。見た通りに描けば良いのですから。迷いも推敲もありません。短くて数時間、長くても大作で1,2週間程度で出来上がってしまいます。

ここが現場主義絵画の弱さです。制作推敲に注ぐエネルギーが絶対的に不足しています。数時間から1,2週間程度の時間でしたら、インスタントの絵しか描けないでしょう。

絵に手間暇をかけることは良いことですが、”旅路”に手間暇をかけたところで何のメリットがありましょう。現場は制作者にとってアトリエのようなものです。アトリエ確保は 絵画とは違う分野(不動産)の問題です。

制作の推敲に手間暇をかけるべきです。現場で描くのは”スケッチ”です。絵画ではありません。

 

ベートーヴェンが散歩しながら楽想を思いつきました。書き留めました。部屋に帰って今までのスケッチも加えて交響曲を作りました。しかしベートーヴェンは決して思いつきで作品を仕上げたわけではありません。スケッチをもとにして、さまざまな要素を盛り込んで推敲を重ねて作品を制作したのです。芸術作品というものは、その場で簡単に出来てしまうほど甘いものではありません。

 

ちなみに私は現場主義をはじめとした、いかなる主義でもありません。

 

現場主義には限界があります。

たとえば「俺は現場主義だ、見て描く絵だけが本物だ」という人に向かってこう言ってごらんなさい。

「後ろから見た自画像を、あなたは描けますか?」と。あるいは「自分の寝姿はどうですか?」と聞いてごらんなさい。

私は別のページで、行き過ぎた抽象画を論じていますが、ここでは行き過ぎた写実画について論じます。

「自分の後姿、寝姿」に加えて、あらゆる構想画や記憶画、版画、歴史画、宗教画、宇宙、海底、そしてあらゆる抽象画は現場主義で描けるでしょうか?

現場主義だったら「あなたが牢獄に囚われたら、もう描くものが無いか」と言えるでしょうか?(引用=リルケ・若き詩人への手紙より)。その問いに答えて現場主義の方々は、きっと「壁だけを描きなさい」と言うかもしれません。

 

絵にはスケッチとタブロー(作品)とがあります。スケッチは取材であって、思いつきの記憶です。タブローはスケッチに理想や思想や人生のすべてを盛り込んで推敲を重ねた一代モニュメントです。

 

現場主義絵画には、スケッチをそのまま引き伸ばして、それを「作品」としてしまった所に発想の安易さ、作品の軽さが伺えると思います。

 

歴史上の名作で、現場(主義ではない)で描かれた絵と、現場以外で制作された絵とを秤にかけてみましょう。

現場制作の絵は、印象派の絵画、日展の一部の絵画など。

現場以外で制作された絵画は、原始時代から古代、中世、ルネッサンス、バロック、ロココ、象徴派などに連なる西洋古典絵画。印象派を除くすべての絵画。浮世絵版画。狩野派等の日本画すべて。

(こう言っては失礼ですが)日展の一部の絵とラファエロの絵、せっせと貯めたお金があったら、あなたはどちらを買いますか?

 

これでお分かりでしょう。勝負は付きました。

私は絵画の現場主義は、マインドコントロールではないかと考えます。

あるいは一時の流行かもしれません。日本だけの、ある一定の年齢以上の方に現場主義者が多いことがそれを証明しています。

 

あの印象派のルノアールでさえも、こう言っています。「”派”や”主義”を前面に立てている画家は、それを自分の無能さの隠れ蓑にしているのだ」と。