絵と写真

写真が無い時代には絵と写真は同じものでした。

人間には目の前のものをそっくりそのまま描いて残したいという本能があり ます。親しかった人をいつまでも覚えていたい、子孫に自分が居たことを知らせたい、などの欲求から画家(絵師)に肖像画の制作を依頼しました。

画家の生活は主に貴族や教会からの収入で成り立っていました。

 

1839年に本格的な実用カメラ「ダゲレオタイプカメラ」が発表されました。その時の画家の驚きは大変なものだったそうです。初めて写真を見た画家ポール・ドラロッシュは「きょうから絵画は死ぬ」と叫んだそうです。

 

ダゲレオタイプカメラ発表される以前にも カメラ・オブスクラというフィルム無しの、レンズと箱とすりガラスだけのようなカメラが利用されていました。

図は左から、ダゲレオタイプカメラ。ポール・ドラロッシュ「若き殉教者」。ドラクロアの裸婦デッサン。ドラクロアが撮影した裸体写真。

 

さて、実用カメラが発売されて、多くの画家が失業しました。

ちょうどその頃、チューブ入り油絵具が発明されました。

それまで画家の弟子が手づくりしていた油絵具を、企業が商品としてチューブに詰めて販売しました。

それまでの油絵具は、顔料と植物油を練ってビンに詰めて一年間熟成させるという製造方法でした。

さて絵具をチューブに詰めるために、蝋のように 絵具の堅さを増す効果のある添加物も加えられました。

画家はそれを持って野外で描くことが出来るようになりました。

野外で描かれた絵には当時の写真には無い魅力がありました。つまり、明るい色があったのです。

当時の写真はモノクロでしたので、それに対抗して生きて行くために、画家は色を使ったのです。

版画も生まれ変わることが出来ました。多色刷りの版画は、モノクロ写真よりも美しかったからです。

色に傾倒していった画家たちの中からマネ、モネ、ルノアール、ドガ、シスレーなどの印象派が生まれています。

 

日本では、明治維新に西洋文化導入の動きが活発となりました。

黒田清輝が渡仏後画家に転向して、印象派の作風と制作方法を取り入れた「外光派」というジャンルを確立させました。黒田清輝が名門の家柄出身であったことから、外光派は日本の洋画の主流となりました。

野外でイーゼルを立てて油絵を描く、というスタイルはここから来ています。これが発展していって、約70年にもおよぶ【現場主義】が流行しました。ある一定の年代以上の絵を描く方は「写真を見て絵を描くのは邪道だ」と言われて育ちました。

もちろん現代ではそのようなことはありません。どこで絵を描こうが自由です。作品の質が良ければ制作方法は問われません。

 

一昔前まで、絵の敵は写真でした。

「写真のように上手いね」という賛辞は、画家にとって侮蔑でした。

特に在野系の画家が、日展系の画家の作品を見てこう言うことが多かったのです。「そっくりに描くなら写真を撮れば良いじゃないか」と。

 しかし最近、この構図が少しずつ変化して来ています。

というのは、最近はコンピューターで絵を描く人が増えてきました。

コンピューターアートは、特に抽象系の絵の制作を容易にしました。

コンピューター絵画で一番難しい技術は、意外と写生画なのです。もちろん写真を取り込んで加工するような絵は易しいのですが、写生して絵を描くというようなことが難しいのです。

そこで今度は日展系の画家が、在野系の画家の作品を見てこう言うようになりました。「そんなのコンピューターでも出来るでしょう」と。